てくてく日光街道を歩く。

日本橋から旧日光街道を日光まで歩きます!〜たまに家庭農園も〜

粕壁〜栗橋

 

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粕壁宿~杉戸宿

春日部イトーヨーカドー

久々の再開。春日部駅からスタート。春日部駅近くにイトーヨーカドー。しんちゃんのサトウココノカドー?を見て日光街道に戻る。

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観音院

本山修験宗寺院の観音院は、小渕山と号す。観音院の創建年代等は不詳ながら、応安2年(1369)に当寺住職玄通が書した観音像に関する縁起が、江戸時代後期に残されたいたといい、安永2年(1773)には本山修験宗の行事職を許されていたとのこと。当寺所蔵の円空仏平安時代作と推定されている他、楼門は春日部市有形文化財に指定。 また。芭蕉の1日目泊は草加と言われたいるが、翌日が間々田に宿泊の場合、草加から遠すぎるので粕壁に宿泊したのでは?とも言われてる。

https://www.kannonin.com/

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杉戸宿~幸手宿

杉戸宿

東京から40km。 古くから利根川(現・古利根川)の渡し場があり、日本武尊が東征を行った際にこの付近に上陸し、そこが杉の木が茂る港(水門)であったことから杉門と名付けられたとする伝説がある。 宿場自体は五街道の整備に伴い、宿場は街道に沿って町並みを構成し、町中は新町、下町、中町、上町、河原組、横町に分かれ、それぞれに名主や問屋が置かれ、本陣・脇本陣はいずれも中町に置かれていた。1843年(天保14年)の改めによると、宿の往還は、長さ16町55間、道幅は5間、宿内家数365軒・人口1,663人、本陣1軒・脇本陣2軒、旅籠屋46軒(大4軒・中7軒)であった。 https://www.town.sugito.lg.jp/cms/page7492.html

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見どころ

あまりなし。タンタンと道をあるきます。

幸手宿~栗橋宿

幸手宿

江戸・日本橋から数えて6番目の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)で、日光街道日光御成道が合流していることから、日光御成道の6番目の宿駅であった。幸手宿は、古利根川右岸の平地に位置し下総国葛飾郡にあったが、利根川筋の改修に伴い武蔵国葛飾郡に属していた。利根川筋の改修に伴い国境変更が行われ、万治年間より武蔵国桜井郷田宮の庄に属し、元禄年間より幸手宿と称された。 近世前期より江戸幕府直轄の天領で、宿内は右馬之助(うまのすけ)町 ・久喜町・中町・荒宿の4町および枝郷の牛村であった。幸手宿には、日光社参による休憩所・宿泊地となる御殿が、聖福寺境内に設置された[8]。また、文久元年(1861年)に、和宮下向時には助合が命じられ、人足のほか膳椀・夜着などを差し出している。 また、幸手宿周辺では、物資流通・商業施設である船着場の権現堂河岸、日光街道日光御成道が合流する重要な宿場周辺に六斎市があった。

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見どころ

あまり見どころなし。日光街道をまだまだ進みます。

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栗橋宿

栗橋宿

慶長年間に、地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、上河辺新田(現栗橋地区)が開墾された。その後、元和2年(1616年)に日光・奥州街道筋が付け替えられ、その地に利根川渡河の宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿は利根川対岸の中田宿と合宿の形態をとっていた。荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、本陣を代々務めた。 栗橋宿から中田宿につながる奥州街道日光街道の間には利根川が交差している。しかし、軍事上の目的から架橋されなかったため、代わりに渡船場が置かれ房川渡しと呼ばれていた。また、利根川沿いには、房川渡中田関所が設置された関所は、当初中田側に設置されていたが、寛永元年(1624年)に栗橋に移設した。正式名称は「房川渡中田御関所」であるが、通称「栗橋関所」とされた。 f:id:kiku355:20211103145514j:plain

栗橋駅

本日の歩行距離約20km。今日はここまで。 f:id:kiku355:20211103145627j:plain